難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき
皇嘉門院別当
<現代語訳>
難波の入り江に生える芦の刈り根の一節は短いもの。
それほどまでに短かく感じられたあなたとの
仮寝の一夜を過ごした私は、
難波江の「みをつくし」のように
この身を尽くしてあなたを恋い続けることになるのでしょう。
<解説>
第八十八番。
一夜限りの逢瀬に身を焦がし、
その夜の想いを胸に、来ない男を待ち続ける女は、
果たして幸福なのでしょうか?
「今日こそは、来てくれるかもしれない。」
「明日こそは、来てくれるかもしれない。」
何十夜、何百夜も繰り返される期待と諦め。
そんな想いに囚われた女は果たして不幸なのでしょうか?
それは、当事者である女にしかわからないことですし、
部外者がどうこう言うべきことではないでしょうね。
そこまで想い続けられる男になってみたい?
…その答えは「Yes.」でもあり、「No.」でもあり。
けれど、実を結ばぬ約束は罪です。
そして、それを行うのは得てして男の方であることもまた事実。
王 道
先日、ふと気付いたことがあります。
それは「私の好きなパターン」です。
今までに映画・小説・ドラマ・漫画・ゲーム等、
それなりに多くの娯楽作品に触れてきました。
その中で、恐らく「これこそが私のツボ!!」と
思われる法則を発見しましたのでご報告します。
まず、主人公が男であること。
必ずしも男である必要はないんですが、
感情移入しやすいという点で男であることが望ましいですね。
そして、主人公には守るべきものがあること。
最後に、主人公は不器用であること。
以上の3点になります。
年端もいかぬ少女。
孤独な男が、とある偶然から少女と知り合い、
少女の幸福を守るためだけに、
絶対に敵わないであろう巨大な敵と戦う。
そして男は自分を犠牲にして少女を守り抜き、死んでいく。
設定はただこれだけです(定番?)
このようなパターンの映画は良くあるとは思いますが、
重要なのは、少女が「救われた」という事実を
知らない(或いは、その当時は知らなかった)こと。
そして、男が生きて少女の前に姿を現すことは絶対にないことです。
これはたぶん、私自身、欲しても決してできないであろうことを、
主人公である彼を通して実現させたい、という
心情の現れなのかもしれません。
「誰かを守って死ぬこと」は美学であります。
しかし、残される者の気持ちを考えない傲慢な美学だと思います。
そして、己の将来と幸福を破棄した
究極の自己満足的な美学であると思います。
…そのように「打算的」に考えてしまうこの私には
絶対に真似できないこのような無骨な生き方は、
やはり映画や小説で擬似的に体験するのがいいのかもしれません。
守りたいものがあるなら、まず共に生き抜く術を考えること。
そう思ってしまう時点で美しくも何ともありませんよね。
戯れに書いてみた猫目的「王道」
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