世の中よ  道こそなけれ  思ひ入る  

   山の奥にも  鹿ぞ鳴くなる

                     皇太后宮大夫俊成   


<現代語訳>

 この世の中には、逃れる道などありはしない。
 それでも逃れようと、思いこんで来たこの山の奥にも
 鹿が哀しげに鳴いている。
 まるで、今の私と同じ気持ちであるかのように。

<解説>

 第八十三番。

 俊成、二十七歳の作品。

 俊成は藤原定家の父。
 藤原道長の流れを汲む公家の血筋でありながら
 地方の官でしかない己の身を嘆いて詠んだ歌です。

 何処にも居場所のない自分自身と、
 寂しさ、空しさを掻き立てる鹿の声の使い方が印象的な歌。

 何処にも妥協できないから逃げたい。
 が、逃げ道などは、最初からありはしない。
 それならば、戦えないのかい、俊成?
 鹿の声ばかり聞いていても、仕方ないんじゃないの?





 自分が確かに「自分」であることを証明する手段は少ない。
 あたかも、癌細胞に浸食されるように、
 心は常に揺らぎ、波打つ。

 変化は目に見えず、
 さりとて、確実に心を蝕む。

 昨日考えていたことが、今日理解できない。
 ましてや、数年前になるとなおさら。

 ただ、日々の意識の変化が再構築されることによって
「自分=自我」が成立しているに過ぎない。

 意識は連続体ではあり得ない。
 連続体であるかのように見えるだけ。

 その変化を「進化」と取る?
 それとも「成長」?

 今までも、私は変わり続けた。
 そして、これからも変わり続けることだろう。

 私は私であっても、決して昨日までの私ではない。





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